先日友人と話していて流れの中で『情けは人の為ならず』という言葉を使った。
しかし、この会話の中で友人が使った『情けは人の為ならず』という言葉は、情けをかけるのはその人の為にならないという意味で友人は使ったのだ。
しかし、これは『情けは人の為ならず』という諺の本来の意味とは違っている。
本来の意味は、情けをかけるのはその人の為になるだけではなく、いずれ巡り巡って自分にも返ってくるので人には親切にしましょうという意味である。
しかし、この教えを常に心がけて人に親切にしているのだとしたら、それは何か下心がありそうで嫌悪感を抱いてしまうのは、私の性格が屈折しているせいだろうかw
まぁ、そもそも言葉というものは相手とコミュニケーションを図るものであり、本来の意味とは違うとしてもそのコミュニティの中で通じていれば間違いではないだろうし、間違って使っている人が半数を超えてしまっているのであれば、多数派になってしまっているので、それはもう言葉の意味が変わってしまって正しい使い方になっているといってもいいだろう。
言葉について色々書いてしまったが、私が今回書きたいのは別にそんなことではないw
私が言いたいのは、本来の意味も誤用の方の意味も的を射てるということ。
よく学生時代に宿題をやらずに学校へ行き、友人に写させてもらうというのが当たり前になっていた。科目が英語なら尚更である。
それが原因かどうかは置いといたとしても、今の私の英語レベルは中学1年生にも満たないくらいのものだろう。
自分で宿題をやっていれば今はもっと英語ができたという考えは安易ではあるが、可能性が無いとも言い切れない。
こういった現象があると考えてみれば誤用で使われる意味合いでも、言葉の使い方としてフィットしている。こういう意味で使うなら、『情けは人の為にならず』といった方が良いとは思うがw
しかし、このような現象が起きる前提には、宿題を写させてもらうという情けをかけてもらう前に、自分自身が宿題を写させてもらうことを許容するという自分が自分自身に情けをかけるという事象が存在している。
この情けに関しては本来の意味での『情けは人の為ならず』すら適応しない。
自分自身に情けをかけると巡り巡って、また自分に情けをかけてしまうだけである。それはただの自分に甘い人間だろう。
『情けは人の為ならず』という言葉は本来の意味でも誤用の方でもそれなりに使うこともあるだろうし、両方の意味は若干相反しているがどちらも一理あると言える。
しかし、自分への情けに関しては全くもって為にはならない。
『自己への情けは為にならない』これに関しては100%確信を持って言える。私自身の現状が全てを物語っているだろう。
自分には情け無用である。
30歳を過ぎて今更だが、人に優しく自分に厳しい・・・ソウイウモノニワタシハナリタイ。(ちょっと国語的内容なので文学チックにww)
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