普通には手に入らない普通

雑記
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いきなりではあるが、普通とはなんだろうか・・・?

普通』の基準はどこにあるのだろうか・・・?

そもそも、基準というもの自体が『普通』というものではないだろうか・・・?

普通』は自身の価値観で決めるのだろうか・・・?

それとも世の中の価値観が決めるのだろうか・・・?

普通』という言葉ほど、曖昧な言葉は中々無いように私は思う。

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普通というものはどうやって決めるのだろう・・・?

例えばだが、5人がテストを受けたとしよう。このとき、Aが20点、Bが20点、Cが40点、Dが100点、Eが20点だった時の平均点は40点になる。

このときに『普通』なのは平均点の40点だったCさんだろうか?それとも、5人のうち3人という過半数を占めた20点の3人だろうか?

普通とは中間値をとるものなのか、多数派であるものなのかはよく分からないものである。

他にも好きか嫌いかで、「普通に好き」という言葉もあるし、私も何気無く使ってしまっているだろう。しかし、普通は好きと嫌いの中間であり、好きではないはずである。

それでも、「普通に良い」「普通に疲れた」「普通に欲しい」などといったように使用される。

これは一定基準を上回った時に使われる『普通』である。

しかし、一定基準を上回ったのならそれは普通ではないのではないだろうか・・・。

私は小学生や中学生の頃、高校生にもなれば普通に彼女ができたり、甘酸っぱい青春を送り、社会に出れば普通に正社員として働き、普通に結婚して、普通に子供ができて親になり、普通にマイホームを持ったりするものだと思っていた。

しかし、今まで生きていた人生の中で、そんな『普通』は一個も無いのが現実である。

昔の自分にそれは高望みだと教えてやりたい。

しかしそれでも、今の日本では正社員で働き、結婚するというのが『普通』に分類されるだろう。

だが私の周りだけでみれば、それをできているやつの方が少ない。もちろん類は友を呼んだだけで、世間からみればマイノリティである。

しかし、世間はマイノリティをカウントしない傾向にあるので、普通以上をカウントして『普通』といった基準点をつくっていく。

そうなると『普通』は少しずつ切り上げられていって、またマイノリティが生まれるという負の連鎖が起きる。そしたらいずれ、マイノリティはマジョリティになってしまうのではないだろうか・・・。

この『普通』の基準にいない人間は自身を失い、自己肯定感が低くなってしまうという傾向がある。そうなれば、なおさら負の連鎖は歯止めが利かなくなるだろう。

だから私は、この『普通』というものをなくしてほしいと思う。

別に日本の為にと大それたことを言うつもりはない。ただこの『普通』というものが、自分で自分自身がいたたまれなく思えてくるからである。

しかし、『普通』をなくしてほしいといったが、できることならばこの『普通』が普通に・・・いや、のどから手が出るほど欲しいのである。

だが、この『普通』は私と同じような境遇にいる人達には高嶺の花であり、普通(笑)には手に入らないのである。

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