諦めが肝心という言葉があるだろう。
この言葉は正直あまりいい言葉ではないと私は思う。
諦めが肝心だというなら、私はすでに人生を投げ出しているだろうし、下手したら自殺している可能性だってある。
諦めるというのは投げ出すというのと同じではないだろうか・・・?
人は何かを諦める時に理由が必要になる。その理由を言い訳とも呼ぶのだろう。
何かをやめる時に諦めという言葉が正しいだろうか・・・?
今までやってきた何かをバッサリと切り捨てるかのように諦めてしまうのは勿体無いように思う。
諦めが肝心という言葉は、諦めたい者を諦めさせる為にあるようにも思える。
諦めるなんていうのは未練があるって言っているようなものだ。未練があるのに断ち切ったところで良い結果が得られるとは私は思わない。
じゃあ諦めないでいつまでもズルズル続ければいいのかと問われれば、答えはノーである。
自分のことだけならまだしも、周りの人が関係していることならズルズル長引かせても周囲に迷惑を掛けるだけだ。
諦めなければいいってものでもないし、諦めればいいってものでもない。
もちろん諦めないで良かったという人もいれば、もっと早く諦めればよかったという人もいるだろう。
諦めが肝心という言葉を諦めるタイミングが肝心だという意味だと言う人もいるが、私はそもそも諦めるという言葉が良くないと思う。
あえて言うならば諦めが肝心なのではなく『引き際が肝心』なのである。
これ以上続けても良い結果がでない、周りに迷惑を掛けてしまう、こういった時には諦めが肝心だと思うのではなく、引き際が肝心だと思うほうがいいだろう。
諦めると言ってしまえば未練を残して、この先に後悔だけ持っていってしまうだろう。引き際だと納得する理由を自分で用意して先に進む事ができれば、後悔も少なくてすむし、未練だって時間をかけて思い出に変わっていくだろう。
諦めるなんて単語にするから深刻になってしまうのである。これを引き際って単語にしてしまえば深く考え込む必要もなく、周囲に掛ける迷惑も自分で引きずる後悔や未練の量も少なくなるように思える。
諦めたと思って自分を悲劇のヒーローやヒロインだと思い込んでいた方が生きやすいというなら、それはそれでいいだろう。しかし、諦めるということに抵抗があるなら、とりあえず引き際だと考えて一旦置いておけばいいと思う。
置いておけばまだ可能性も少し残っているようにも思える。
結局は自分が生きやすいように考えればいい。周りの人間は自分よりも強い人間で、そういったことを全部乗り越えて生きているように思えるときもあるが、実際はそんなに深刻に考えてはいないだろう。
世の中の人間の大半はなんとなくで生きているのである。
ようは考え方しだいと話。生きていければいいのであるw
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