人にはそれぞれ何かを決めなくてはいけないことがあるだろう。
お昼ごはんのファミレスのメニューといった小さなものから、進路や就職といった大きなものまで、人は生きていく中で常に決断を迫られている。
いや、むしろ本当に小さなところまで突き詰めていけば、決断していくことの集合体が人生なのかもしれない。
人は大抵の場合おおまかな流れに沿って生きているので、あまり決断に悩むことがないようにも思う。
しかし、決断をする時には必ず一瞬でもいいから立ち止まることをオススメしたい。
①どちらを選んでも心残りはある
はじめて行ったレストランで気になるメニューが二つある場合、多かれ少なかれ皆悩むだろう。片方を選べばもう片方が気になる、これは避けては通れない道だろう。
また来れる店なら次にすればいいが、旅行先などで二回目が無い場合は選択に困る。
その場合に人は皆後悔はしたくないから、片方が店のオススメならそちらを選ぶ人も多いと思う。しかし、そうでない場合はどちらか片方を選ぶしかない。
その結果、美味しくなければもう片方にしとけばよかったと思うし、美味しければこっちにして良かったと思うだろう。
しかし仮に選択した方が美味しくても、もう片方はより美味しかった可能性もある。それを美味しかったから自分が選んだ方が正解だと自分に言い聞かせるのだろう。
結局のところ選んだ方が正解だろうと不正解だろうと、人は選ばなかった方も気になってしまうのだ。
レストランを例に述べたが、これが進学先や就職先だったとしても同じだ。選択しなかった方の自分の人生は誰にも分からないし、今より良かったか悪かったかも分からない。
人が決断する時には選択肢を決めるのを同時に、割り切る覚悟も必要になるのである。
②結局、決断するのは自分
人は何かを選択するのに悩んだら、親や友人あるいはプロの方などに相談することもあると思う。もちろん相談するのは良いことだと思うし、必要だとも思う。
しかし大半の人は、背中を後押しして欲しかったり、自分を止めて欲しい人が多いのではないだろうか。
その時点で本人の選択は決まっているのだとも思う。
じゃあなぜ相談するのかというと、選択して失敗した場合に周りの人もそう言ったからと言い訳することができるからだろう。
それがダメなのかというと、私は全然ダメだとは思わない。むしろ賛成である。
決断する時には勇気が必要になるのだから、言い訳できるような状況にして少しでも楽になって勇気を出せるならそれも有りだろう。
しかしそれとは別に、選択肢に対しての自分の偏りをフラットな状態にして人に相談するというのも試して欲しい。そうすれば人の様々な意見も客観的に聞くことができ、今までの自分では選ぶことがなかった方の選択肢にもメリットが見えてきたりするのではないだろうか。
いくら言い訳の理由をつくったり、選ぶ方のメリットを見出したからといっても、最終的にその選択肢を選ぶ決断をした理由は自分が選んだということでしかない。
③やって後悔もやらないで後悔も一緒
世の中ではやらないで後悔よりもやって後悔だとか、当たって砕けろとか、転ぶ時は前のめりにだとか格好の良い格言のようなものがあるが、後悔したら一緒だし、砕けたり転んだりしては元も子もないと私は思う。
①で書いたように、やって後悔したとして、やらないでも後悔したかどうかは誰にも分からないのである。
そもそも、やらないで後悔よりもやって後悔という言葉には、どうせなら行動を起こして後悔しようというポジティブな思考があるだろう。
しかし、やらないで後悔のやらないでを戦術的待機などと言い換えれば、戦術的待機という行動を起こしているとも言える。
自分は何もアクションを起こさずに戦術的待機をしても、時間は流れるのだから勝手に周りでアクションが起きることもあるだろう。また待機している間に別のアプローチで良い結果をもたらす選択肢も出てくるかもしれない。
まとめ・・・
結局のところ人生での選択は学校などのテストと違って必ずしも正解があるとは限らない。
人間は後悔する生き物だし常に葛藤と戦っている。
そんな中で何かを決断するのに一つだけ言えるのは、決断する前に少しだけでも立ち止まって考えてもらいたい。
選択した方が失敗だとしても、やって後悔しても、やらないで後悔しても、決断する前に考えないで後悔するのだけはしてもらいたくない。
考えることだけは誰にでもできることなのだから、決断する前には一度立ち止まることをオススメしたい。
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